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TOP > よくあるご質問

about安泉寺

安泉寺では様々な行事が行われていますが、誰でも参加できるのですか?

はい、仏教に関心のある方、人と人が出遇い共に集うことを願っておられる方ならどなた様に限らず大歓迎です。

各行事に参加費は必要なのですか?

各行事への参加費は以下の通りです。
・同朋の会      :年会費 1,000円
・仏教民踊踊りの会  :月謝(講師礼) 1,000円
・仏教コーラスの会  :月謝(講師礼) 1,000円
・門徒女性聞法のつどい:無料
・安泉寺子ども会   :無料
・バス旅行・新年互礼会:臨時会費
・その他の年中行事等 :お志(随意)

安泉寺で年回法要などを行うことは出来るのでしょうか?

それぞれのご自宅まで当寺より僧侶が伺い、お内仏前にてお勤めいたしますが、ご希望により当寺本堂にてもお勤めさせていただいております。(その場合、本堂維持協力費といたしまして、ご法礼とは別に10,000円申し受けております。)
なお、駐車場(追い込み式で4台ほど)会館もご利用頂けます。

現在安泉寺門徒ではありませんが、葬儀、年回法要、月命日読経などをお願い出来るのでしょうか?

お一人でも多くの方に仏縁を結んで頂きたい、その一心で日夜、取り組んでおりますので、どうぞお気軽にお問い合わせ下さい。

お寺の本堂というと、足が痛くてかなわないというイメージがあるのですが…

どうぞご心配なく。当寺では座布団ももちろんご用意いたしておりますが、椅子席も
40席ほど常設いたしております。

安泉寺にて葬儀を行うことは出来るのでしょうか?

正直なところ現時点では使い勝手に優れているとは申せませんが、誠意を持って対応させて頂きます。 どうぞお気軽にお問い合わせ下さい。

今後どのような活動を企画していますか?

写経の会(正信偈書写等)を企画しております。(詳細未定)
そのほかにも、仏弟子の名乗りであるご法名をお授けする帰敬式や新生児の誕生を言祝ぐ初参式なども企画中です。

What is 浄土真宗?

よく「門徒もの知らず」などと、門徒は何もしなくても良いので楽だと言われたりしていますが、実際の処はどうなのですか?

「門徒もの知らず」とはつづめて言われた言い方で、本当の意味は「門徒物忌み知らず」ということを、浄土真宗の門徒自身がむしろ誇りを持って名乗ってきた歴史に由来いたします。
真宗門徒はご本願(阿弥陀仏の広大無辺な智慧と慈悲のお働き)を真実のよりどころとして生きる者です。ですから世間で言われる迷信や占い、吉凶禍福などの物忌みに煩わされることから解き放たれた、主体的な生き方が可能となるのです。
しかし、世間一般が深くとらわれていることにとらわれないと言うことは、自由ではありますが、また自らの選びに対しては責任もって担っていくということでもあり、自らが自身の人生の主人公となって生きることに他なりませんから、決して気楽なものということではありません。

「他力本願」ということもよく耳にしますが、どういうことなのでしょうか?

これもよく誤解されていますが、他力本願とは自分では何の努力もせず、棚からぼた餅のような僥倖を待つ、そのような無責任な態度のたとえとして用いられることが多いのですが、正しくは「本願他力」と表されるべきものです。
その意味は、全ての生きとし生けるものを漏らさず、おさとりの世界、浄土におさめとりたいと願い続けて下さる阿弥陀様のおはたらきのことです。そして、このおはたらきを自らの生きるよりどころと仰ぎ、いただく生き方こそが真宗門徒の念仏生活です。
明治の先達、清沢満之先生はこの真宗門徒の生活を「人事を尽くして天命を待つ」ではなく、「天命に安んじて人事を尽くす」と喝破されました。

南無阿弥陀仏と念仏しますが、何か意味不明の呪文のように感じるんですが…

古代インドの「ナムアミターユスブッダ、ナムアミターバブッダ」を音訳した言葉で、無量のいのち、無量の光に帰依いたします、と一般には訳されています。
しかし親鸞聖人は我々凡夫に帰依の心などはない、ただ阿弥陀如来のご本願が至り届いて、私の口を借りて現れ出でて下さったのだと喜ばれました。
このことを金子大栄先生は「念仏は自我崩壊の音である。」と表現され、自我関心に凝り固まった我執の心が、阿弥陀仏の広大無辺な慈悲と智慧に照らされて転ぜられ、限りなく破られつつ、ひろやかな心を賜るのだといただかれました。 ですから念仏申す生活を常讃嘆・常懺悔の生活と先達の方々はいただいてこられました。

真宗の仏事Q&A

最近お内仏の無い家庭が増えてきていますが、本当に必要なのでしょうか?

人間の一番尊く美しい姿は、洋の東西を問わず合掌礼拝の姿であると言われています。
もちろん、念仏は時処諸縁を選ばれずと、親鸞聖人のお言葉にもありますように、必ずしもかたちにとらわれる必要はありません。
しかし、私たち凡夫にもわかるようにと、かたちなきものがあえて姿かたちを現して下さったものが仏様だと言われます。お内仏をきちんと荘厳し、襟を正して合掌礼拝すればおのずとお敬いの心も育ち、我執の角も折られることでしょう。そして、その後ろ姿に有縁の方々も自然とお育てにあずかることとなるのです。
そう、お内仏は家庭の中心で有り、人の和を育む生活の中心です。

真宗では浄土三部経や正信偈はあげるが、般若心経はあげないと聞きましたが…

はい、お釈迦様のお説きになられたみ教えは、八万四千の法門とも言われるほど膨大なものです。
そんな中、般若心経は最も短いお経なので、広く親しまれていますが、そのじつは般若の空の思想を説かれた難解な経典です。
阿弥陀如来の本願力をいただく「他力」を旨とする真宗のみ教えにたてば、どこまでも自力の行を勧める般若心経は、尊くはあっても我々凡夫には近しいお経とはいただけないのです。