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安泉寺のあゆみ

 安泉寺。創建年代不詳。古来村の念仏道場であったものが、徳川時代初期の寛文7年(1667年)に真宗大谷派末寺となった猪飼村固有の寺です。村の中央部、鶴の橋60m北東にあります。
 猪飼野は、上町大地東側斜面にあり、現在の大池橋あたりから曲がりくねって流れていた平野川(旧名百済川、宝永3年徳川幕府が八尾から浅香山を掘削、境へ流路変更した大和川の分流)が疎開道路に変身したあたりが猪飼野で、まさにその箇所に16代仁徳天皇が「十四年冬十一月猪甘津に橋をつくる」(日本書紀)とある鶴の橋を架けられたのです。その頃は大阪湾の海水が、生駒山西麓まで入り込んでいて、河内平野に広大な湿地があったようです。それで猪飼野は玉津(玉造江)、猪飼津、桑津と続く港でもあって、百済、高麗、新羅や隋・唐とも交流の玄関口であったそうです。

 

 古記事に、鷹甘、鳥甘、馬甘(甘は養または飼)や猪甘という言葉がよく見られます。猪飼野には古代、朝廷大膳職をつとめる、猪(豚と同意)を飼育する部族が住んでいたと考えらます。和泉山脈から狭山・住吉・天王寺・生玉・高津から天満まで続く上町大地には、応神・仁徳・孝徳の諸帝が皇居を造営されていました。室町末期に本願寺蓮如上人が坊舍を建立された時、注文したように土中から石材が掘り出されたのは、皇居の遺物だったと考えられます。それで、石山本願寺と名付けたのです。それが後、秀吉によって大阪城となりました。
 徳川時代になって猪飼野村は、幕府代官直轄地となりました。これはこの村が平野街道、桑津街道、俊徳街道、桃谷街道の節点であることがその理由と考えられます。明治元年官地となり、明治4年廃藩置県後大阪府の管轄となり、同22年岡村・木野村・東小橋村・小橋村と共に鶴橋村となり大阪市に編入されました。
 昭和18年4月現近鉄線を境に東成区から生野区となりました。鶴の橋も新平野川開削にともなって昭和15年廃橋となりました。明治維新以来、明治18年の枚方淀川決壊の大洪水、日清戦争、日露戦争、米騒動、室戸台風、満州事変以来太平洋戦争まで幾多の苦難を経験して来たことであります。昭和48年にはとうとう猪飼野という名称も表示変更でなくなりました。

 

 安泉寺は、徳川時代、村内の戸籍を預かり、寺子屋を開設していました。明治5年に猪飼野小学校となり、明治20年に平野川対岸の木野村小学校(宗玄寺も開設)と合併して、鶴橋尋常小学校が建設されるまで村内の子供たちの教育にあたって来ました。学校が創設されてからも13世住職猪甘教導、14世住職猪甘俊譲は、寺務のかたわら村内の児童の教育に情熱を注いでおりました。現在の本堂と庫裡と併せて大正14年春、住職檀信徒協力して全面的に改築したもので、南面を西面本瓦葺に変え、太鼓桜を廃し、鐘桜門とし、井戸屋型手洗所を附属しました。鐘桜門は木村権右衛門氏の寄贈によります。平成6年に至って、境内南西隅にあった猪飼野若中会館(旧鶴橋青年団猪飼野分団会館)を、村内南50mの場所に移築し、老朽化した庫裡を廃し両跡地に安泉寺門戸会館と庫裡を新築し、本堂の全面補修を実施しました。
 安泉寺歴代住職は、多数のご門徒と共に、この地域社会に信仰をよりどころに生きさせて頂いてきました。境内214坪、寺宝に親鸞筆六字名号があります。

 

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